2007年

ーーー11/6ーーー 安曇野スタイルの工房公開

 安曇野スタイル2007のイベント、工房公開が終わった。長いようで短い四日間であった。

 来場者の数は合計70人。昨年から比べるとかなり減少したが、昨年が出来過ぎていたのかも知れない。今年の状況が妥当な線かとも思う。

 自宅の部屋を開放しての展示は、今回が初めてだったが、メリット、デメリットの両方があったと思う。それらをここで詳細に述べることは控えるが、総じてみれば良い印象だったのでは無いかと感じている。これからは、自宅の部屋の一つを、常時展示室として使うことも、考えてみても良いかも知れない。

 さて、訪ねてきてくれた人たちの中には、いろんな人がいて興味深かった。

 私にとって最も嬉しかったのは、あらかじめこのホームページを読んでおられて、私の作品や人となりを知った上で来られた方々。つまり、たまたま訪れたというのではなくて、私の所を目当てにして来てくれた方たちである。そういう方とは自然に話が弾み、ゆっくりと過ごしていただけたように思う。

 一番寂しかったのは、工房巡りの途上にあったから寄ってみただけという感じの人たち。別に不快なことをされたわけではないが、まるで吹いて過ぎる風のように、展示品に何の関心も示さず、5分と経たないうちに出て行ってしまった。これには少々がっかりした。

 これら両極端の間に、様々な人がいた。こちらが期待した通りの見方で、作品に接してくれる人もいた。反対に、作品とは関係のない、室内の備品などについてあれこれ言う人もいた。また、個人の住宅ということで、入るのに躊躇していた人もいたようだ。置いてある家具を、言われるまで展示品と気づかなかった人もいた。逆に、実際に使われている環境に置いてあるため、作品の良さが伝わって来たと述べた人もいた。現物よりも、写真集に熱心だった人もいた。窓から見える景色に感心している人もいた。

 イベントの目的からすれば、的外れな部分もあったと思う。しかしそれは、見方を変えれば、様々な人の様々な反応を引き出した結果とも言える。それは来訪者が見て感じるネタが、この現場に多かったからだと思う。自宅という生活の場は、それだけ情報量が多いということだろう。ありのままの私の生活と作品を見てもらうという意味では、有意義な試みだったかも知れない。

 これを機会に、ありのままの生活を、もう少しレベルアップさせることも考えたいと思う。いつ誰が来ても、きちんとした形で迎えられるように。

(画像は和室における展示)






















ーーー11/13ーーー 技を盗む

 職人は先輩のワザを盗んで覚えろいう。たとえ親方と弟子の関係でも、教えてもらうのではなく、弟子は親方の仕事を脇で見ながら覚える。また、こっそり道具箱を覗いて、道具の仕立てを盗み見たりする。そんなことが、日本の職人社会の慣習だったそうである。

 私の工房にも、ときどき同業者が遊びに来る。また、木工の基礎を勉強している最中の若者も来る。そういう来訪者に対して、自分のワザをどこまで開示するかということは、微妙な問題である。

 これまで私は、問われた事には何でも答えるようにしてきた。何でもかんでも、包み隠さず話してきたのである。いや、聞かれてないことまでベラベラ喋る傾向すらあった。

 私が普段付き合っている木工家たちも、私と同じように、問えば何でも教えてくれる人が多い。ところが、聞いた話では、同業者とは口をきかない木工家もいるそうである。また、同業者が工房に来ると、品物に布をかけて見えなくする人もいるらしい。

 そんな話を聞くと、なんと了見の狭い人たちだと感じたものである。木工というジャンルのレベルを上げ、社会の中でそれなりの評価を得るためには、まず木工家どうしが連絡を取り合い、技術交流をしてレベルアップをはかる必要がある。そして、お互いに協力をして社会に立ち向かわなければならない。こそこそと自分一人の世界に浸っているようでは、木工家の地位向上にはつながらない。などと考えていた私であった。

 先日別のジャンルの工芸家と話をする機会があった。話題が上に述べたようなことに至ったら、「大竹さん、それはダメです」と言われた。同業者に大事なことを教えてはいけないと言うのである。教科書に書いてあるようなことならまだしも、自分で考えついたアイデアや工夫をベラベラ喋るものではないと。それは財布を開けて中身を他人に見せるようなもので、正常な行為ではないと言うのである。

 また、人が開発したワザを、軽い気持ちで教えてくれと言うような者は、いずれにしろ見込みが無いから、教えても無駄だと言われた。本当に知りたいと思い、悩み抜いた者なら、道はおのずと開けるはずだ。「あなたもそうやって身につけて来たのでしょう」とも。

 アマチュアの仲良し付き合いなら別だが、プロが作家生命をかけてやっている核心の部分に関しては、もっと厳しくなければならない。逆にその厳しさが無ければ、工芸家としての成長は望めない。人を押しのけてでも前に進もうとするのが、非情に聞こえるかも知れないが、工芸家の宿命であると。

 そんな話を聞いて、あることを思い出した。

 家内の父は溶接工だった。現在はもうリタイヤしているが、重工業メーカーに勤め、腕に自信のある職人だった。何年も前になるが、夕食の席で酒を飲みながら、その義父から仕事にかかわる思い出話を聞いたことがあった。

 溶接工の世界にも、渡りの職人というのがいたそうである。社員として企業に雇われるのではなく、仕事を求めて全国を渡り歩き、数日単位で仕事をして稼ぐという職人である。

 義父の職場にも、渡り職人が来た。特殊な溶接技術を持った男で、他の者は真似ができなた。もちろん教えてはくれなかった。男は一冊のノートを持ち歩き、それを見ながら仕事の段取りをしていた。そのノートに特殊技術の秘密が書いてあるようだった。義父はどうしてもその技術を知りたいと思った。そしてある日、昼休みに男が将棋で遊んでいるときをねらって、そのノートを盗み出し、コピーを取ったというのである。

 そのノートが実際にどの程度役に立ったかは分からない。しかし、どうしても知りたければ、盗んででも手に入れるという荒っぽさに、当時まだ若かった私は驚いたものだった。

 私は生来の性格のせいか、とかく善良でスマートで紳士的なやり方を好むのだが、モノ作り、職人の世界には、その正反対の、どす黒くて熱いものがつきまとうようである。

 
 
ーーー11/20ーーー 楽器を作る楽しみ

 先日太鼓を制作した。仕事ではなく、遊びである。しかし、遊びと言えども、木で作るからにはそれなりのものにしたいと思うのが、木工家の性というものか。

 以前、ポリバケツを利用して太鼓を作ったことがあった。大学の音楽サークルでドラムをやっていた長女が、用済みのドラムヘッド(金属製の丸い枠に革が張ってあるもの)を持って帰って来た。それを再利用して、太鼓を自作したのだった。

 私の趣味の一つであるフォルクローレ(南米の民族音楽)の演奏には、太鼓がつきものである。肩からぶら下げた太鼓を叩きながら、サンポーニャという笛を吹く楽士の姿を映像で見た。それを真似たかったのだが、本物の太鼓には手が出ない。それなら自分で作ろうということになったのである。

 中学生の頃、ギターを作ったことがあった。ベニヤ板を貼り合わせて胴を作り、ネックはラワンか何かの木材でこしらえた。それに楽器店で購入した糸巻きを取り付け、フレットも切り込んだ。そして弦を張って糸巻きを絞り、ギューンと張力を高めたら、全体が弓なりにしなってしまい、苦心の作はあえない最後となった。

 木工業を始めてから、空き缶三味線を作ったことがある。沖縄のカンカラ三線(さんしん)を真似て作ったのである。これには木工技術が役に立った。普通の人だったらちょっと苦労するような加工も、道具と技術のおかげで簡単に終えられた。出来上がった三線は、思いの外良い音がした。

 現在も定期的に制作に取り組んでいるのはケーナである。これもフォルクローレで使う楽器で、日本の尺八と同じ原理の縦笛である。これまで10本以上を作ったが、いまだに勘所がつかめない。作り方を教えてくれた人からは、数を多く作るうちに、だんだん要領が分かって来ると言われた。先日も九州から竹材を20本ほど取り寄せた。ケーナ作りとは、生涯の付き合いになるだろう。

 さて、話を太鼓に戻そう。

 今回の太鼓は、アイルランド音楽で使うバウロンというものである。片面張りの胴が浅い太鼓で、左手でかかえ、右手に持ったビーターというスティックで、軽快に打ち鳴らす。完成品を購入しても、3万円も出せば十分に使えるものが手に入るというから、特別高価なものではない。しかし、いきなりちゃんとした楽器を買うのではなく、とりあえず自分が作ったモノで試してみたいというのが、子供の頃のギターから変わらない発想である。

 本物はヤギの革を張るらしいが、そんなものは手に入らないし、張り方も分からない。そこで、ポリバケツ太鼓の経験を生かして、ドラムヘッドを使うことにした。楽器店で18インチのバスドラムのヘッドを購入した。張ってあるのは、実は革ではなくて、プラスチックの膜である。現在流通しているドラムというのは、みんなこのようなものらしい。従って、意外なほど安価である。

 そのドラムヘッドの大きさに合わせて、胴を作った。カバ材を薄い板(厚さ1.3ミリ)に作り、それを丸めながら接着して4層にするのである。この加工は、予想を越えて難しかった。

 ヘッドを胴に取り付けるのは、ターンバックルである。ホームセンターで売っている小さなターンバックルを12ケ使うことにした。胴の深さは、ターンバックルの長さに合うように、13センチとした。

 ターンバックルは、そのままだと両端のフックの形状が具合良くないので、バーナーで焼いて形を整えた。ヘッド側の先端は、1センチほどが余分だったので切り落とした。

 できあがった太鼓は「本物のよう」に見えた。音も良く響いて、大きな音がした。しかし、これがバウロンと呼べる品物になっているかどうかは、本物を触ったことが無いので分からない。

 ともあれ、楽器を自分で作るというのは、楽しいことである。買ったものに比べれば、品質はかなり劣るかも知れない。しかし、自分の世界を作り出し、自分らしい表現をしたいと願う時、これは音楽に限ったことではないだろうが、自分の手で作ったものには一つのインスピレーションがある。それをひっそりと自分一人で味わう楽しみは、なかなか捨て難いものだと思われる。

 

ーーー11/27ーーー ニセアカシアを切る

 ニセアカシアという名の樹がある。明治初期に持ち込まれた北米原産の落葉広葉樹で、高さは15メートルくらいに達する。きわめて生命力が強く、他の樹種が生えないような土地でも育つことから、護岸を目的に川岸へ植えられたことも多かったようである。安曇野地域の河川にも、ニセアカシアの濃密な林を見ることがある。

 この樹種は、その生命活動の強さから、在来植物の生態系に悪影響を与えるという理由で、環境省から「要注意外来生物」に指定されている。治山や砂防に活躍した反面、茂り過ぎて迷惑にもなると言う、人間社会にもいそうな「役に立つけど疎まれる存在」の植物である。

 私は数年前にニセアカシアを自宅の庭に植えた。土地の隅の方に自生していた幼木を掘り出し、植え替えたのである。植えた場所は、もともと土が悪いのか、他の植物は育たなかった。植木屋で買って来たモクレンは枯れてしまったし、近くの林から取って来たカエデも、ほとんど成長しなかった。そこで、ニセアカシアを植えることにした。この樹なら痩せた土地でも生えるし、また成長するにつれて土壌を改善する効果もあると聞いていた。わずか30センチほどの幼木を植え付け、夏の暑い日には水をやり、板で日陰を作ってやったりした。そんなふうに大事に育てているのを見て、私の父は「なんでそんな下らない樹を植えたのか」と悪口を言った。

 はたしてその樹はすくすくと育っていった。植物が生える見込みの無い土地に、自分が植えた樹がたくましく成長していく姿は、見ていて気分が良かった。誰が何と言おうと、この樹を植えて良かったと思った。最初の一本で気を良くした私は、その後敷地の入り口付近に二本を追加して植えた。

 樹は植えて2〜3年経つと、本格的に伸びるようになる。人間で言えば成長期だろうか。かわいかったニセアカシアも、ある時を境に急激に繁り方が増した。等比級数的とも言える増え方、まるで「図に乗っている」とも思えるようなスピードで、枝を伸ばし、葉を増やしていったのである。

 あまり背が高くなると、切ることもできなくなる。また、ニセアカシアはその成長の早さに根の張りが追いつかず、風倒する危険が多いとの話も聞いていた。それで3年ほど前から、夏の時期に何度か剪定をするようになった。始めは地面から竿を伸ばして作業をしたが、そのうち脚立に乗らねば届かなくなった。さらに最近では軽トラの荷台に脚立を載せることを強いられるようになった。枝を切ると、それに対する腹いせのようにして、新たな枝を付け、葉を繁らせていった。狂おしいほどの成長速度である。まるで反抗的な意思を持っているかのようで、少々不気味な感じさえした。

 夏には涼しい日陰を作ってくれるニセアカシアではあるが、このまま中途半端な手の入れ方を続けていては、そのうちとんでもない事になりそうな予感がした。そこで先日、思い切って刈ることにした。私の頭の高さくらいで幹を切ったのである。三本ともそのようにした。それまで豊に茂っていた樹が、地面から突き出た棒のような形になった。大きな枝を切ったとき、落ちて来た枝が頭に当たって帽子が飛んだ。あやうく怪我をするところだった。それが、ニセアカシアの抵抗のようにも思われた。

 しかし、これで壊滅的な打撃を与えたと判断するのはまだ早い。おそらく来春になれば、切ったところから芽を出し、それが枝となって、またまた活発に成長をするだろう。そして人間を見下ろし、怯えさせるのだ。人間の(私の)勝手な都合、気まぐれな行為によっていじられている彼らも気の毒ではあるが、これはもう戦いのような様相を呈している。

 





 
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